歩く猫

日々飽和をして溢れてしまう感情を残すために書いています。

【映画レビュー】「犬王」

ロックな映画だった。

本作は、平家物語を題材に琵琶法師の友魚と能楽師の犬王の生き様を描いている。

 

平家物語は口伝(声で語られる)物語である。

そのため、文字の読めない庶民階級の人々にもその物語が伝わっていった。

テレビも携帯もなかった当時の人々は、平家物語が広まっていったこの瞬間に、

日本という国の存在を、

もしくは自分自身を、歴史のコンテクストの中で初めて意識できるようになったと思われる。

そのため、平家物語の影響力は非常に大きなものであったはずである。

 

これだれ大きな影響力を持つ平家物語であるため、時の権力者が複数の平家物語が存在する事を良しとしなかった。

権力者としては、自身に都合の良い物語だけ残したいだろう。

 

しかし、平家物語は(もしくは何かを語るという行為は)、亡くなっていった人々の思いを代弁し鎮魂するという役割も持つ。

犬王と友魚は、

圧政の下、語られることなく亡くなっていった人々の声を集めて代弁した。

圧力にも屈せず、勝者の歴史に埋もれてしまっていた声を集めて物語を紡ぐ姿は本当にロックであった。

 

 

この映画を観ている時に、小説家の北村薫さんの言葉が浮かんだ。

「小説が書かれ、読まれるのは人生がただ一度であることへの抗議からだと思います」

 

私がこのブログを書いているのも、

たった一度の人生に対する小さな反抗かもしれない。

 

 

 

【映画レビュー】「Blue Giant」

Blue Giant


今年というか、これまでに観た映画でトップレベルに良かった。

2週連続で映画館に行き、2週連続で号泣をしてしまった。

 

世間では、ロジカル的/功利的なものが時代の本線になりつつある。

『根拠は何ですか?』

定量的に話すことが大事だよ』

確かに論理的/定量的に話すことはとても大事である。

 

でも、

『言葉にできなくても好きなものは好きじゃん』

理由があるから『好き』じゃなくて、『好きだから好きなんだよ!』

『誰かに説明できなくても、誰にも理解されなくても良いものは良いじゃん』

忘れていた感情が心の底から湧いてくるような映画だった。

 

いくら時代が変わろうと、情熱に代替できるものはないのだ。

情熱を忘れないように生きていこう、そう思えた映画だった。

 

 

【美術館に行く意味とは_大塚国際美術館にて】

【美術館に行く意味とは_大塚国際美術館にて】

 

なぜだろう。

いつからか美術館に行くことが好きになった。

小さい頃はあんなにつまらない場所だったのに。

 

芸術の勉強した訳でもない

特別好きな芸術家もいない。

美術館を楽しめるという『違いの分かる男』になりたいわけでもない。

自分自身のことなのに、どうして美術館を好きになったのか分からなかった。

 

しかし最近、美術館を好きな理由が一つだけ分かった。

それは『歴史的/時間的な文脈のなかで自分自身の存在を認識できる』からである。

小学校の頃、社会の時間に歴史を学んだことで数千年の人類の歴史を分かった気になっていた。家族にも『昔に○○っていう出来事があったんだよ!』と自慢げに話をしていた。

しかし、よくよく考えてみれば本当の意味で私の知っている歴史など数十年に過ぎないのだ。社会の時間に学んだ歴史はあくまで机上のものであって、私が見た歴史/体感した歴史など数十年に過ぎないのだ。

自分自身の歴史に限っては、自分がどこから/どういったルーツで生まれてきたのか見当も付かない。(ひいおじいちゃんの顔まではなんとか写真で見たことがある程度だ。)

 

美術館はそんな私に歴史を教えてくれるのだ。

もう少し敷衍しえ言えば、

数々の年代の美術品を見るたびに

『それぞれの時代にも必ず私のルーツとなった先祖が生きていて、彼らが頑張って生きてきたからこそ私は今この瞬間に美術館に立っている」のだと感じることができるのである。

美術品を見ることで、机上のものであった歴史(表面的であった歴史)が肉付けをされて、本物の歴史(感じることができる歴史)として捉えることができるのである。

歴史を本当の意味で感じることができた瞬間に、

私は私の存在を無条件に肯定することができのである。

遥か昔から脈々と続いた歴史の結果が私であると感じることができて、

私という存在自体に自信を持てるのである。

 

私のような理由で美術館に行く人は少ないと思うが、

ちょっと疲れてしまった時や、ちょっぴり自信を無くしてしまった時には、

是非美術館を訪れて、自分自身の存在をそのまま認めてあげるのもオススメである。

 

 

【何が世界を動かすのか_カンボジアキリングフィールドにて】

【何が世界を動かすのか_カンボジアキリングフィールドにて】

 

〈はじめに〉

学生時代、私は1年間大学を休学して東南アジアを一周した。

休学した理由は何百個もあった気がするし、何もなかった気もする。

確かなことがあるとすれば、ただ単純に、自分の中に存在しているぬるい熱が、行動することで冷え切るのか、それとも燃えたぎるのか確かめたかったのだ。

様々な感情の中で1年の時間を過ごしたが、

その中で1番気持ちの整理に時間のかかった問題について記述する。

 

カンボジア_キリングフィールドへの訪問〉

カンボジアでの滞在中、私はキリングフィールドを訪れた。

キリングフィールドとは『Killing Field』の名の通り、ポルポト政権下に大量虐殺が行われた場所である。

ポルポトは、原始共産主義(極端な農本主義)の名のもとに、自分にとって都合の悪い人間、とりわけ教師や専門家といった知識人を徹底的に粛清した。

その数は、当時のカンボジア国民の4分の1(200万人以上)であった。

メガネをかけていたり、手の平が柔らかい(≒農作業をしていない)との理由で殺された人もおり、老若男女から赤子に至るまでが虐殺をされた。

キリングフィールドには、虐殺の跡がまだ残っていた。

足元を見渡せば人骨が散見され、

首切りに使用されたノコギリヤシが存在し、

薄くはげた木の幹には赤子が叩きつけられて殺された痕が見て取れた。

 

〈世界を動かすものの正体〉

キリングフィールドを訪れた後、

「ここで感じたことを何かに残さなければ」

「誰かに伝えなければ」と思ったが、思考は停止していた。

恐ろしいという感情が心を支配していたが、

そもそも何が恐ろしいのか整理が出来なかったのである。

殺人を肯定する気は全くないが、テレビのニュースで犯人の動機を聞けば、殺害理由を理解はできないまでも認識することはできる。

しかし、あのキリングフィールドで行われた虐殺行為の動機が全くもって見つからなかったのである。ポルポト本人はまだしも、あの場所で実際に処刑を行った人間には、あそこまで残忍な行為を行う理由があったのだろうか。

何があの国の/あの空間を支配して動かしていたのか。

何によって/誰によって、このカンボジアの歴史と現在が作り出されたのだろうか。

ずっと考えても何も分からなかった。

 

 

数年が経ち、私は一つの結論に達した。

あの時の「分からない」という感情は正しかったのだ。

あのキリングフィールドで実際に処刑を行った人間は「空っぽ」であったのだ。

空っぽの人間の動機を探したところで、なにも見つかるはずがないのだ。

虐殺を行った人間は平凡であり、ポルポトのような強烈な思想は存在せず、

あくまで上司の命令に従って作業を実行しただけなのだ。

つまり、私がずっと考えてきた、世界を動かしているものとは『無』であったのだ。

『無』の集合体が世界を動かしていたのだ。

『無』が世界を動かすという矛盾したような解を導いた私は戦慄した。

私でさえも、思考を停止して『無』となった瞬間に悪の片棒を担ぎ始めてしまうのだ。

 

〈おわりに〉

いま、テレビから流れてくる臭気はあの日のカンボジアと同じだ。

戦争が起きている。

『無』がまた世界を動かそうとしている。

ダメだ。 

 

我々は、

「私を動かすものは私である」

「私の歴史は私が作った」

自信を持って言えるように生きていかなければならない。

我々は考え続けなければならない。

二度と悲惨な歴史を繰り返さないためにも。

 

 

【洋酒喫茶ロダン訪問記 in 尾道】

【洋酒喫茶ロダン訪問記 in 尾道

 

尾道観光を終えてゲストハウスに戻ったが、時計の針はまだ20時を指していた。

 

折角の1人旅だ。

もう少し尾道の夜を楽しみたい。

 

デジタルネイティブの本領を発揮し、指先で世界を検索すると"洋酒喫茶ロダン"というBARなのかcafeなのか分からないお店がヒットした。

「お酒を飲みたい!」という気持ちと「敷居の高いお店はちょっと。。。」という気持ちが混在していた私にとって"洋酒喫茶"の文字は天啓のように思えた。

オシャレとは程遠い無粋者の私が「知らない土地でBARに行く」というシャレオツムーヴメントをできるのがひとり旅というものだ。普段では自分自身のメタに笑われるような行動も知らない街ではすることができる。

 

いつもと違う自分にちょっぴりの誇らしさと気恥ずかしさを抱えながら目的のお店に到着した。

貝殻の形をしたネオン看板を横目にドアノブを回した。

 

「え、、ここは水族館?」

「いや水族館というより竜宮城じゃん」


ダーコイズ色に溢れた店内には貝や海洋生物の剥製が所狭しと並んでおり、海の中にいるような浮遊感を感じた。

齢80を越えているだろうマダムにカウンターに案内されるやいなや、

「このコレクションはいったい何ですか?」と聞いてしまった。

注文もせずにいきなり質問をするというnotシャレオツな私にマダムは優しく教えてくれた。このお店のコレクションはマスターが半世紀以上をかけて集めたものらしい。

目の前に広がる大量の貝(はたまた収集の背景にある年月/熱量/好奇心というもの)に圧倒をされ、刹那的に言葉を失った。

ぽかんと口を開け、notシャレオツ&マヌケな顔の私に、優しい&話し上手なマダムは色々なことを教えてくれた。

貝は何十年もフィリピンに通って取集したこと、マスターとの馴れ初め、珍しい海洋生物の話、その他いろいろ。

 

会話のなかで特に印象に残った言葉がある。

「貝は海の底に在るでしょ。誰にも見られる/見せるわけでもないのに、どうしてこんな綺麗な色をしているのかしらね」

本当にその通りである。

このお店にある貝は、このお店で飾られる運命を知ってこの見た目になった訳ではなく、光の無い海の底であっても同じ見た目なのだ。

どんな環境や運命にあっても同じように生きる。そう考えると、ちっぽけな貝の方が人間よりもずっと強いような気がした。

猿であった時代から集団で過ごしてきた私たちには遺伝子レベルで誰かの目を気にする特性があるのかもしれない。それはそれで重要な事であり、だからこそここまで人類が存続しているのだとは思う。しかし、一億総ツッコミ時代で窮屈となった現代においては、もう少し貝のように生きてもよいのではないか。。。

 

そんなことを考えていると、閉店の時間となっていた。

 

マダムに感謝の気持ちを伝え、私は竜宮城を出た。

竜宮城を訪れた浦島太郎は年を取ったが、私はこの竜宮城を訪れたことで若返った気がする。いや、古い自分が年を取って消え去ったのかもしれない。

 

いつもより深くて長い夜のなか、私は帰路についた。

 

 

【映画レビュー】「四月の永い夢」

映画全体を通しての色が素晴らしい。

一つの詩を読んでいるかのような、余韻の残る映画だ。

思うに、我々の普段の生活では言葉で全て説明する事が求められる事が多く、説明できないことは往々として悪いことと捉えられてしまう。

また、情報過多な社会で暇があれば携帯をいじってしまったり、まったく行間のない日々を過ごしている。

それに対し、この映画は詩的で行間のある映画であり、忙しない日々に清涼感を与えてくれるものだ。

 

行間のない日々に疲れた時は、この映画を見て癒されたいなと思う。

【映画レビュー】「百万円と苦虫女」

まず蒼井優が可愛い。

南海キャンディーズの山里さんと結婚した事で話題だが、実際に蒼井優さんの俳優としての姿を見たことがなかった。

この作品でなにかの新人賞を受賞したそうだが、それも頷ける。とにかく透明感がすごかった。ああいった透明感とは演技なのだろうか。やはり才能なのだろうか。はたまた、その両方か。

 

もう一つ目が行くのはピエール瀧の怪演だ。

ネタバレになってもいけないのため深く言及しないが、ピエール瀧の心情が全く読めなかった。あの怪演もこの映画を彩るものだろう。

 

時には自分を守るために逃げて逃げて逃げまくることも必要だとこの映画から学んだ。

そして解決したくなった時に問題に向き合うのがよいと思う。

たとえ、それですれ違いが起きてしまったとしても、それが人生だと割り切ればよい。

 

「武士道」でも同じことが言われている。

『武士道というは死ぬことと見つけたり

(為すべき事を為すためにいつでも死ねる覚悟でいろ。為すべきことがそれで無ければ全力で逃げろ。)

 

溜まった洗濯物を目の前に、

これは私の為すべきことであろうかと思案している間に日が暮れた。

まぁいいや。明日やろう。