歩く猫

日々飽和をして溢れてしまう感情を残すために書いています。

①くるりと21歳の夏

 

「僕が旅に出る理由は大体100個くらいあって。」

 

「全部後回しにしちゃいな。勇気なんていらないぜ。僕には旅に出る理由なんて何ひとつない。」

 

当時の私の気持ちを表すならば、くるりの『ハイウェイ』がピッタリだろう。

 

2019年の夏、

私は大学を休学して旅に出た。

フィリピン→タイ→カンボジアベトナムラオス→タイ、という東南アジア一周のバックパッカーである。

 

大学を休学してまでバックパッカーをしようと思った理由は何だろうか。

大学生活がつまらなかった訳ではない。

むしろ大学生活は充実していた。

第一志望の大学に落ち、人生で初めての挫折は経験したものの、後期試験で入学した大学は自然豊かで居心地がよかった。

太平洋側が出身の私にとって、北陸に位置する大学での生活は発見の日々であった。

 

法学部での勉強も検察官を目指して熱が入っていたし、GPAも学部のなかで1番であった。またサークルでもリーダーを務めており、充実した日々を過ごしていた。

 

だが何かが違っていた。

 

自分の中にある熱の居心地悪かったのだ。

微熱でうなされた時のように、やり場のない熱が発散されたがっていた。

 

身体の表面では雪を感じていても、

心はずっと熱帯夜の中にいた。

 

当時、胸の中にあった熱は何だったのだろう。

冒険がしたかったのだろうか。

 

確かに、昔から知らない場所に行く事は好きだった。

 

幼稚園の頃、脱走を試みたことがある。

ただ私は世間的に見れば物分かりのいい子供であったので、お母さんを待つ夕方の自由時間に先生に見つからないように脱走を計画した。

脱走をしたことがバレて心配をかけるのは私の望むところでなかった。

夕方の自由時間、園児たちは自由に遊んで親の迎えを待つ。脱走するにはこれとない機会である。私は細心の注意を払って行動にでた。

幼稚園での脱走で気をつけないといけないのは先生よりも園児である。あの年頃の子供はいい意味で(脱走したい私には悪い意味で)正義感に溢れている。怪しい行動をすれば、すぐに「○○ちゃんが悪いことをしています!」と叫ぶのである。世界のどの監獄よりも監視が厳しいかもしれない。私は怪しまれないように、ブロックで車(クラッシュギア?)を作っている友達を横目に教室を出た。

そして誰にも見つからないように幼稚園の柵の間から身を出して脱走したのである。

ほんの数分だけであるが脱走をして満足した私は、誰にも見つからないように幼稚園に戻り、何事もないかのようにブロックで遊びながら母親を待った。

弱冠、4歳児による完全犯罪である。

 

小学6年生の夏休みには、同級生を誘って旅に出た。旅といってもお金がないので、ひたすら知らない方向に歩いていくだけの旅である。

学期中の放課後に校区外に遊びに行く事は禁じられていた。学級委員をしていて、おそらく良い子だと思われていた、もしくは思われないといけないと思っていた私は大人しく学期中の日々を過ごしていた。

しかし、夏休みであれば私がどこに行くか規制されるいわれもない(お金持ちの友達は校区でなく国を越えて出かけるのだから、校区外に出かけることがどうしていけないのだ)と思い、夏休みに計画を実行した。

2つ隣の校区まで歩いただけの旅であったが、とてもワクワクした記憶がある。

卒業文集には、

「楽しかった修学旅行」

「がんばった運動会」というタイトルが並ぶなか、私の文集には『最後の夏』いうタイトルがついた。

 

大学1年生の時には、JICA主催のイベントに参加した。

第一志望の大学に落ちたこともあり、

「なんでもいいから沢山のことに挑戦して見返したい」という気持ちと、

漠然と「人の役に立ちたい」という気持ちがあったため参加を決意した。

JICA主催のイベントは全5回からなる通年のイベントであった。

長野県の駒ヶ根にある合宿所に泊まって、

青年海外協力隊の人たち(海外派遣前に研修を受けている人たち)と一緒に授業を受けたり、福井県の農家にお邪魔をして技能実習生として農業を学びにきている海外の人と交流をした。

当時のイベントについて詳しくは覚えていないが、JICAの人が言っていた言葉はよく覚えている。

『私たちが戦っているのは貧困ではなく社会の仕組みだ』

『Everything happens to the happiness 』

 

イベントに参加をして、

私には、この人たちのように、人生を懸けてまで世界を変えたいという情熱はないのだと感じた。

世界のことより自分の人生を優先してしまう自分に気がつき、ショックを受けた。

だが同時に、こういった人を応援してあげられる人にはなれるかも知れないと勇気も出たし、私も自分の目で、自分の言葉で、世界を感じたいとも思えた。

 

このように自分史を振り返ると、バックパッカーを決意した理由が掴めそうな気もするが、明確にこれだというものは見つからない。

社会人となった今の私がその答えに辿り着くことはないだろう。

だが、確かに言えることがあるとすれば、

2019年、21歳の私は、とにかく自分のなかの熱を燃やすか冷やすか何とかしないと生きていけないと感じていたのだ。

 

大学構内の雪景色



 

 

 

朝井リョウ『正欲』を読んで

悩ましい。

 

正直どんな言葉で感想を書いたらいいのか分からない。500ページくらいのそれなりに長い小説なのだが、文章の一つ一つが身体に刻み込まれていくようで、読んでも読んでも飽きることなく終わりのページを迎えた。

 

『みんな違ってみんな良い』

『多様性は素晴らしい』

などという言葉は、

使い勝手の良い言葉として、あたかも自分は理解力のある人間ですよと示すために使いがちだ。

 

しかしその『多様性による違い』はどこまでの違いなら許されるのか?

犯罪と勘違いされるような指向の違いを『良いこと』として本当に認めてくれるのか?

多様性といいながら、許容される多様性は多数派が寛容できる範囲に限る多様性ではないだろうか?

 

近年、ポリティカルコレクトネスという言葉をよく聞く。しかし、この本を読むとコレクトネス(正しさ)は誰にとっての誰のための正しさなのだろうかと思わされる。

 

この本を読んで色々か考えが浮かんできたものの、具体的にどう多様性に向き合えば良いかという答えは出ない。

 

ただ『3分の2を2回続けて引く確率が6分の4となるように、多数派であり続けることは少数派である』ことは忘れないように生きていこうと思えた。

 

 

人の間

ふと携帯を手に取る。

 

暇があれば携帯を手に取ってしまう現代病に侵されている自分に少しの罪悪感を感じる。

 

携帯を手に取ったものの特にやることはない。

Twitter(Xが正式名称だが慣れない)やインスタも特に更新がないため、見ることがない。

 

このような時は決まって写真フォルダを見る。

特に1年前の写真を見返すようにしている。

 

『この出来事から1年かぁ〜』という感慨に耽ることで、「1年は意外と長いから焦らなくてもいいよ」という言葉と、「すぐに1年経っちゃうから努力しなよ」という言葉を交互に自分に投げかける。

 

子供の頃は自分が年老いて死ぬことは遠い先のことに思えていた。そんなこと起きないのではないかというレベルの遠いことに思えていた。

しかし最近は、1年がこんなに早いのなら80歳になるのもあっという間だと思うようになった。

 

かといって、80歳までに何を成し遂げたいかは分からない。何を成し遂げなくても別に幸せである気もしている。時折、人生とは何なのだろうと思う。別に病んではいない。むしろフラットな気持ちとして、人生とは何でどうやって生きるのが正解なのかと思う。

 

以前、夢の中で知らない人が、「人間という文字は人の間と書きます。つまり我々は普段は人ではない存在で、現世は人であるつかの間という時間です。だから大切に生きなさい(大意)」と言っていた気がする。

 

時々、この夢を思い出しては、なるほどな、と思う。

人生に目的は中々見つからない。でも、人である時間は少ないということは確かにそうであると思うし、貴重だ。

私という存在がどんなものであるかは分からないが、人である時間は確かに希少である気はする。

 

とりあえず、何か無駄にしないようには生きようと思う。(まぁ無駄で何に役に立つのか分からないことが大好きなのではあるが)

 

そんなことを考えていると、写真フォルダの写真を一通り見終える時間となる。

 

そんな私の日常であるが、

とりあえず人である間は、

人として色々なことに挑戦したいと思う。

 

 

柚子風呂と重層的思考

職場で柚子をもらった。

『ありがとうございます!湯船に入れて柚子風呂にします』とお礼を言うと、

『お風呂入れるなんて偉いね』と言われた。

 

自分にとって湯船に浸かることは日常のルーティンなのだが、20代男性にしては珍しいということらしい。

確かに社員寮で毎月貼り出される光熱費の内訳表?を見てみると自分の部屋の水道代が1番高い(高いといっても寮なので一人暮らしに比べたら十分安いのだが)

 

大学に入り1人暮らしを始めた当初は、掃除をしてお湯を貯めるという行為のハードルが高すぎてシャワーで済ませていた。

 

しかしいつからかお風呂に入ることが好きになった。お風呂に入ると身体の表面に着いた1日の疲れのようなものが流れて、新品の自分になれる気がする。

またそもそも水というものに包まれるというのはとても安心をする。

『赤ちゃんの頃は羊水の中にいたから〜』というような科学的な理由?とは別の理由で気持ちが落ち着く。

 

というのも、自分が水になりたいと思う節があるからだ。

水はどんな形にも変形できる。且つ、水の滴は岩をも穿つし、水は人間にとって不可欠である。

 

自分もそんな存在になりたい、と、いつからか思っていた。そんな理由で水に対しては尊敬の念?があるため、そのような存在に包まれるお風呂は大好きだ。

 

柚子風呂から出て布団に寝転がると、身体から柚子の爽やかだが温かい匂いが香ってきて気持ちが落ち着いた。幸せはこんな簡単に手に入るんだなと実感する。

 

時折こんなくだらない自己分析ばかりしていると、自分は何も進んでないような気がする。

 

しかし、進化はしなくても深化すれば良いのではないかと最近思う。

 

定量的な形で誰かに説明できないと自分が何も進んでいないように思えて気持ちが沈んでしまうこともある。また考え込んで自分の存在が宇宙に飛んでいってしまような気持ちになることもある。

 

しかしそれはそれでいいのではないだろうか。

世間一般では、横軸に思考が広がることばかりもてはやされてる気がする。しかし目に見えなくても、定量的に説明できなくても、縦の世界で思考が深めることで見つかるものもあるのではないか。

 

どうしても横軸ばかりが評価されてしまうが、縦軸の思考を深めていきたいと思う冬至の日であった。

 

PS.柚子風呂にハマり自分で柚子を買ってしまった。

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吉本ばなな『キッチン』を読んで

読まず嫌いで、ずっと読んでいなかった(そもそも小説ではなくエッセイ集だと思っていた)が、YouTube本仮屋ユイカさんがオススメをしている動画を見て興味を持ち、読んだ。

 

正直言葉にできないが、読んでいて何度も泣きそうになった。強い衝動が襲ってきて涙が出るのではなく、じんわりと心の奥底で閉じていた心のドアを開かれて(読んでいると何かを許された気がして)勝手に涙が出てきてしまった。

読む前は何となくオレンジ色のほっこりするイメージの本だったが、読んでみるとめちゃくちゃ澄んだ青色の本だった。

 

今まで読んでこなかったことを後悔する気持ちよりも、今このタイミング(社会に出て数年が経った現在)に出会えて良かったと思えた。

 

自分にとって本当に大切な感情や大切なことを思い出させてくれる小説だった。

お金や宝石や功績などを得ることは凄いことだし、大事なことだと思う。

でもそれに勝るような一夜限りの出来事や、一晩の夕食が存在すると思えた。(ずっと心の中で自分を支えてくれるような思い出)

 

毎日が良いことばかりではないし、壊れてしまいそうな夜をこれから何回も経験すると思う。

でも同じくらいに良いことも沢山あるし、素敵な瞬間を何度も経験するだろうし、経験するために全力で生きようと思えた。

 

難しい言葉遣いはしていないがそれでいて心に響いてブルーハーツの曲 と同じような本だなと直感的に思った。

 

あまりまとまりのない文章になってしまったが、今はそれはそれでいいと思う。

 

この本を読んだことで自分自身のdoが変わるかは分からない。しかし、beの部分が微かだが絶対的に変化、柔らかく変わった気がする。

 

オズの魔法使い星の王子さま、僕らの七日間戦争、都会のソムソーヤなど、自分にとって宝物の本はいくつかあるが、この本も宝物の一冊になるだろう。

(自分の肌にあった本を読むと本が自分の身体の一部になった気がして、強く優しくなれる気がする)

 

これからもこんな体験のできるような本に出会いたいし、そんな本に出会えるような生き方をしていきたい。

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言葉のロマン

昨夜、岩盤浴に行き漫画を読んだ。

『チ。地球の運動について』という漫画だ。

15世紀のヨーロッパが舞台で、当時禁じられていた地動説に魅せられて信念を貫く人々の物語が描かれている(大意)

 

漫画の中で『活版印刷』が出てきた。

小学生の頃、火薬と羅針盤に並ぶ発明品として活版印刷があると教わったが、当時はなぜ活版印刷が発明品なの?と不思議だった。

 

火薬や羅針盤が生活を変えるのは小さな頃の自分にも理解できた。

「火薬は『パァーン!』って感じで強そうだし、羅針盤は自分の居る位置がわかるのはインテリでカッコ良さそう。でも活版印刷って地味だし何がすごいの?」

当時の自分はそう思っていた。

 

しかし今では、活版印刷は人類史上最も偉大な発明だと思う。

印刷技術によって文字/言葉を通じて自身の考えを、

時間や場所を超越して伝えることができるのだ。

 

よく人は2回死ぬと言われる。

1回目は身体が無くなったとき。

2回目は人々から忘れられたとき。

そう考えると、文字は私の言葉を、いや言葉を通じて私という存在を縦横に広がる世界に伝播させて、永遠の命を与えてくれるのだ。

ロマンである。

 

私が自己満足で書いているこのブロブも、

どこかのだれかが、今日でも明日でも何年後にでも読んでいてくれたらと考えると非常にワクワクして嬉しい気持ちになる。

 

最後に漫画の中のセリフと丸山薫の言葉を引用する。

 

本当に文字は凄いんです。アレが使えると時間と場所を超越できる。200年前の情報に涙が流れることも、2000年前の噂話で笑うこともある。そんなの信じられますか?

私たちの人生はどうしようもなくこの時代に閉じ込められてる。だけど、 文字を読む時だけは かつていた偉人たちが私に向かって口を開いてくれる。

その一瞬この世界から抜け出せる。

文字になった思考はこの世に残って、 ずっと未来の誰かを動かすことだってある。

そんなの…まるで、奇跡じゃないですか 。(チ。 地球の運動について321話より引用)

 

小説が書かれ読まれるのは、人生がただ一度であることへの抗議からだと思います。

北村薫 「空飛ぶ馬」あとがきより引用

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僕が僕であることを証明したならば、きっと世界はその重さに耐えきれずに、風船のように割れてしまうだろう

『僕が僕であることを証明したならば、きっと世界はその重さに耐えきれずに、風船のように割れてしまうだろう』

 

数年前に携帯に書いたメモを見つけた。

よくもまぁこんな恥ずかしい文章を書いたものだなぁ、と思うと同時に、核心をついているようにも思えた。

 

人類の歴史上、私と全く同じ人間(同じ遺伝子を持ち同じ環境で生きてきた人間)など存在するはずがない。そう考えれば私を説明することは容易な気もする。

 

しかし、実際は難しい。

『私は〜が好きで、〜を綺麗と思って、〜を見ると泣きたくなる』などと列挙しても、同じ条件に当てはまる人間は絶対に存在するはずだ。

 

そう考えれば、

私が私であると証明することは世界を押し潰すほどの重さは確実にあるように思える。

(私の存在を他の誰とも被らないところまで説明していたら、何百年時間があっても足りない気がする)

 

最近は人の命が軽く扱われている。

しかし、人ひとりの命は、存在は、この世界よりも重いものなのだ。

加えて、人の関係は蜘蛛の巣のように繋がっている。そうであれば、人ひとりは世界が何百個分の重さがあって然るべきなのだ。

 

疲れた時は自分自身が本当にちっぽけで軽い存在に思えてしまう。だが、そんなに軽い存在だと思うなら、自分が自分だと証明できるまで、説明し続けて欲しい。

 

 

人に優しさできる人は、自分に優しくできる人だと思う。みんなが自分にやさしくできる世界になればいいと思い、ペンを置く。

 @初めて訪れた喫茶店にて 歩く猫より