歩く猫

日々飽和をして溢れてしまう感情を残すために書いています。

なぜ真面目に生きるのか

「真面目だね」とよく言われる。

 

他に褒めるところがないからそう言われるのだ、と斜に構えて生きてきたが、

確かに人よりも真面目な部分が少し多いのかも知れないと最近は思えてきた。

 

では、どうして自分は真面目に生きているのかと考えてみた。

それはたぶん『本当の瞬間』に自分自身に怖気つかないためだと思う。

 

本当の瞬間を言葉で説明するのは難しいが、人生の分岐点のようなものだと思う。

 

The Blue Heartsの歌詞にも『ほんとの瞬間はいつも死ぬほど怖いものだから〜』とあるが、その通りで、本当の瞬間に頼ることができるのは真っ裸にされた自分自身だけで、とても怖いものだと思う。

 

私は自分に対して自信がない。

だから何も準備していない状況では本当の瞬間が訪れた時に対応ができないと思う。

 

しかし、普段から真面目に嘘なく生きていれば(少なくとも自分が自分に納得ができていれば)、本当の瞬間に自信を持って行動ができると思う。

だから私は真面目に生きているのだ、と今は思っている。

捕らえられるは我が心なりけり

虫網を持ち佇む少女いて、

捕らえられるは我が心なりけり

 

電車の車窓から見えた、虫網を持つ少女の姿に胸を打たれた。

 

形而上の感情はどのようにして現せばいいのだろう。

少女の後姿から発せられた眩しいまでの純情なオーラに心を奪われてしまう夏の日であった。

 

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【映画レビュー】フィッシュストーリー

『僕の孤独が魚だったら、巨大さと獰猛さに、鯨でさえ逃げ出す』

 

本作は伊坂幸太郎の小説が原作となった映画だ。

あらすじとしては、

彗星の衝突まであと5時間と迫った地球で、全く売れぬまま姿を消していったパンクバンドの歌が地球滅亡の危機を救うという内容の映画である。

 

この映画の中で1つの歌が周り回って世界を救ったように、

普段の生活の中でのどの行動がどのように世界に影響を与えるかは誰にも分からない。もしかしたら今日の自分の小さな挑戦が何百年後の世界を救う一因になっているかもしれない。

『将来どうなるか分からない』という言葉は、マイナスなコンテクストで使用されがちだが、

『将来のわからなさ』に希望を感じることのできた映画であった。

 

日々の生活で、自分のやっている事が何の役に、誰の役に立っているか分からなくなり、生きている意味も分からなくなることもある。

しかし、今日の私の行動が何かを変えるかもしれないという小さな希望を胸に秘めて生きていきたい。

 

 

 

『良い顔』をした大人になりたい

『30才になったら生き方が顔に出るよ』

『だから私は性格の良い人と付き合いたい』

電車で隣に立っていた女性の声が耳に入った。

 

胸に刺さった。

本当にその通りだと思う。

 

言葉では説明できないが、

『整っている』とは違う意味で、

『この人は良い顔をしているな』と思った経験は何度もある。

反対に、いくら綺麗な顔をしていても全く魅力的でない人もいて、その人は『良い顔』をしてない。

ある意味では、『顔が良い人』を選ぶことは『性格が良い人』を選ぶことかもしれない。

 

正直、どのような生き方をすれば『良い顔』になるのかは分からない。ただ、電車で彼女の声が耳に入った時、真面目に優しく生きていきたいと純粋に思えた。

 

見ず知らずの女性よ、ありがとう。

あなたのおかげで私は『良い顔』をした大人になれるかもしれない。

(なれるか分からないが、なろうという努力を決意する事はできた)

 

 

 

 

 

何者かになりたい私たち

街を歩けば、至る所で若者が踊っている姿を目にする。いわゆるTikTokerというものだ。

 

私が高校生の時代にはそのようなサービスがなかった。

だから、どうしてTikTokが流行っているのか、

誰に向けて踊りを見せているのか正直分からない。

 

推測になってしまうが、彼らの目的は

「何者かになること」

「周りの人に見られること」といった承認欲求を満たすことだろう。

私はこれが別に悪いこととは思わない。

 

誰しもが中高生の時には、「何者かになりたい」という鬱屈とした感情を持っており、それを何処かで発散したいのだ。

彼らは暴走族やタケノコ族の若者と何も変わらないと思う。

 

私が疑問に思うことは、就職などがキッカケでTikTokやタケノコ族から卒業した若者は「何者かになりたい」という感情を上手く昇華できたのかということだ。

 

私の経験上、

承認欲求を上手く昇華した人間、

ありのままの自分を認めることができる人間などほとんど居ない。

 

あそこでTikTokを撮っていた若者はどこへ行くのだろう。就職などのタイミングで突然奪われた承認欲求の避暑地はどうなるのか。

彼らはどこで感情を発散するのだろう。

 

そもそも世の中のどれくらいの人が、

自分が何者であるか定義付けられているのだろう。

 

私が思っている以上に、

世の中は『何者かになりたい若者』で溢れているのかもしれない。

 

 

 

 

日が伸びると地球に騙されている気分になる

最近は日が長い。

暗くなるのが遅いため、時計を見るたびに

「もうこんな時間なの?!」と驚いてしまう。

 

まるで地球に騙されたような気分になる。

 

ここで面倒な性格をした私は、

本当に『騙されてるのか』考えてみる。

そもそも、騙すという行為は、

騙す側と騙される側がそれぞれ別に存在するはずである。

 

私と地球ではどうだろうか。

私は地球の一部である。

つまり

「地球が騙す」と「私が騙す」はある意味では同義であり、

地球を批判することは自己矛盾である。

 

あぁ、 せっかく夜更かしの理由を地球のせいできると思ったのに。。。

 

夜更かしの理由はどこまで行っても私なのだ🌕

ほどほどに早く寝よう💤

【おっぱいイデア論】

※このブログは非常にくだらないため、時間を無駄にしたくない紳士淑女の皆様は見ないでほしい。

 

『おっぱいイデア論

これは私史上最大の発見である。

 

古今東西、いつの時代も男たちは不毛な議論に情熱を注いできた。

「どんなおっぱいが好きなのか」

ちっぱいか、おおおっぱいか」

その議論は尽きることなく時代を越えて継承されてきた。

まさに阿呆界のフェルマー定理である。

 

それぞれの矜持をかけて、理想的なおっぱいについて討議を交わした我々であるが、

共通して言えることは、「おっぱいが好き」ということである。

 

それぞれの理想は違えど、皆おっぱいが好きなのである。

これが意味することは、おっぱいとはイデアなのである。

我々が好きなのはおっぱいのイデア、つまり概念のおっぱいである。

おっぱいイデア論が広がれば、世界平和も遠くはないだろう。

ノーベル賞を受賞している私の姿が目に浮かぶ。

 

いや。。。

たった今、この完全無欠と思われた理論の矛盾に気が付いてしまった。

おっぱいのイデアが好きなのであれば、我々は形而上学的なおっぱいで満足することになってしまう。そんなことはあってはならない!

あの膨らみに詰まっている夢を触ることなく満足することなどありえないのである。

概念などという小難しいもので我々の夢を、希望を満たそうなど浅はか極まりなかった。世界平和どころか世界中の男を発狂させてしまうところであった。

我々の好奇心/探求心は、ゴビ砂漠より広くマリアナ海溝より深いのだ。

 

ここにて私史上最大の発見は見事に打ち砕かれたのである。

めでたしめでたし。