歩く猫

日々飽和をして溢れてしまう感情を残すために書いています。

どちらが世界を救うのか

街を歩く

 

駅のペデストリアンデッキ

 

道の両脇に2つの人影

 

ひとつの人影は看板を建てて微笑む上品なマダム。いわゆる宗教への勧誘をしているひとだ。勝手な偏見かもしれないが、ちょっと怪しそう、怖そう、と思ってしまう。

でも、こんなに蒸し暑い夏の夕暮れに、涼しげな笑顔で立っていられる姿を見ると少なくとも私より高尚な人間なのだろうと思う。

 

もう一つの人影は、ポロシャツ半ズボン眼鏡をかけた中年のおっさん。

更に言えば、アコースティックギターを抱えたおっさん。

このおっさんは何のために、ギターを抱えているのか。こんなに人通りが多いところで歌うことが恥ずかしくないのか。おっさん。

僕はおっさんの歌を聞いていないけれど、たぶんおっさんの歌は上手くないと思うよ。

むしろ下手な予感もしてしまうよ。

 

でもね、何故だろうね。

世界を救うのは、少なくとも僕を救ってくれるのは上品なマダムじゃなくて、おっさんの方だと思うよ。

 

 

 

 

言葉のいらない瞬間

今日、従姉妹の結婚式があった。

私自身、ちゃんと(物心がついてから)結婚式に参列したのは今回が初めてであった。

 

幸せそうであったし、もっと幸せになってほしいと思ったし、やっぱり世界は愛だよなとサンボマスターのような気持ちになった。

 

新郎新婦の幸せそうな姿を見て何度か涙が溢れたが、

1番感動したのは新婦の両親の眼差しである。

 

30年近く育てた娘。

旅立つ娘を見つめる眼差しは何とも形容し難い優しさや温かさに溢れていた。

このような眼差しは人生の中でも何度も見ることができないようなものだと思う。

 

よく『世の中にはお金で買えないものがある』というが、まさにそれであったし、世の中には言葉で形容できないものがあると感じた。

 

私自身、言葉は大好きである。

言葉が世界に先立って存在しているとも思う。

『美しい』という言葉があるから、美しいと感じることができると思う。

 

しかし、今日のような光景をみると、

言葉はいらない、言葉で形容しないほうがいいよなと思える瞬間ももあるのだと感じた。

 

本物の瞬間、純なる瞬間、空間は、それ自体がそれ自体として完結していてそれ以上に説明も後付けも不要なのである。

 

そんな言葉の必要のない空間を体験した1日であった。

本物の瞬間、純なる瞬間には言葉は不要である。

そんなことを考える私にはやはり言葉は必要であるので、今日も今日とて、言葉を愛し、探しながらブログを書くのである。

 

 

①くるりと21歳の夏

 

「僕が旅に出る理由は大体100個くらいあって。」

 

「全部後回しにしちゃいな。勇気なんていらないぜ。僕には旅に出る理由なんて何ひとつない。」

 

当時の私の気持ちを表すならば、くるりの『ハイウェイ』がピッタリだろう。

 

2019年の夏、

私は大学を休学して旅に出た。

フィリピン→タイ→カンボジアベトナムラオス→タイ、という東南アジア一周のバックパッカーである。

 

大学を休学してまでバックパッカーをしようと思った理由は何だろうか。

大学生活がつまらなかった訳ではない。

むしろ大学生活は充実していた。

第一志望の大学に落ち、人生で初めての挫折は経験したものの、後期試験で入学した大学は自然豊かで居心地がよかった。

太平洋側が出身の私にとって、北陸に位置する大学での生活は発見の日々であった。

 

法学部での勉強も検察官を目指して熱が入っていたし、GPAも学部のなかで1番であった。またサークルでもリーダーを務めており、充実した日々を過ごしていた。

 

だが何かが違っていた。

 

自分の中にある熱の居心地悪かったのだ。

微熱でうなされた時のように、やり場のない熱が発散されたがっていた。

 

身体の表面では雪を感じていても、

心はずっと熱帯夜の中にいた。

 

当時、胸の中にあった熱は何だったのだろう。

冒険がしたかったのだろうか。

 

確かに、昔から知らない場所に行く事は好きだった。

 

幼稚園の頃、脱走を試みたことがある。

ただ私は世間的に見れば物分かりのいい子供であったので、お母さんを待つ夕方の自由時間に先生に見つからないように脱走を計画した。

脱走をしたことがバレて心配をかけるのは私の望むところでなかった。

夕方の自由時間、園児たちは自由に遊んで親の迎えを待つ。脱走するにはこれとない機会である。私は細心の注意を払って行動にでた。

幼稚園での脱走で気をつけないといけないのは先生よりも園児である。あの年頃の子供はいい意味で(脱走したい私には悪い意味で)正義感に溢れている。怪しい行動をすれば、すぐに「○○ちゃんが悪いことをしています!」と叫ぶのである。世界のどの監獄よりも監視が厳しいかもしれない。私は怪しまれないように、ブロックで車(クラッシュギア?)を作っている友達を横目に教室を出た。

そして誰にも見つからないように幼稚園の柵の間から身を出して脱走したのである。

ほんの数分だけであるが脱走をして満足した私は、誰にも見つからないように幼稚園に戻り、何事もないかのようにブロックで遊びながら母親を待った。

弱冠、4歳児による完全犯罪である。

 

小学6年生の夏休みには、同級生を誘って旅に出た。旅といってもお金がないので、ひたすら知らない方向に歩いていくだけの旅である。

学期中の放課後に校区外に遊びに行く事は禁じられていた。学級委員をしていて、おそらく良い子だと思われていた、もしくは思われないといけないと思っていた私は大人しく学期中の日々を過ごしていた。

しかし、夏休みであれば私がどこに行くか規制されるいわれもない(お金持ちの友達は校区でなく国を越えて出かけるのだから、校区外に出かけることがどうしていけないのだ)と思い、夏休みに計画を実行した。

2つ隣の校区まで歩いただけの旅であったが、とてもワクワクした記憶がある。

卒業文集には、

「楽しかった修学旅行」

「がんばった運動会」というタイトルが並ぶなか、私の文集には『最後の夏』いうタイトルがついた。

 

大学1年生の時には、JICA主催のイベントに参加した。

第一志望の大学に落ちたこともあり、

「なんでもいいから沢山のことに挑戦して見返したい」という気持ちと、

漠然と「人の役に立ちたい」という気持ちがあったため参加を決意した。

JICA主催のイベントは全5回からなる通年のイベントであった。

長野県の駒ヶ根にある合宿所に泊まって、

青年海外協力隊の人たち(海外派遣前に研修を受けている人たち)と一緒に授業を受けたり、福井県の農家にお邪魔をして技能実習生として農業を学びにきている海外の人と交流をした。

当時のイベントについて詳しくは覚えていないが、JICAの人が言っていた言葉はよく覚えている。

『私たちが戦っているのは貧困ではなく社会の仕組みだ』

『Everything happens to the happiness 』

 

イベントに参加をして、

私には、この人たちのように、人生を懸けてまで世界を変えたいという情熱はないのだと感じた。

世界のことより自分の人生を優先してしまう自分に気がつき、ショックを受けた。

だが同時に、こういった人を応援してあげられる人にはなれるかも知れないと勇気も出たし、私も自分の目で、自分の言葉で、世界を感じたいとも思えた。

 

このように自分史を振り返ると、バックパッカーを決意した理由が掴めそうな気もするが、明確にこれだというものは見つからない。

社会人となった今の私がその答えに辿り着くことはないだろう。

だが、確かに言えることがあるとすれば、

2019年、21歳の私は、とにかく自分のなかの熱を燃やすか冷やすか何とかしないと生きていけないと感じていたのだ。

 

大学構内の雪景色



 

 

 

朝井リョウ『正欲』を読んで

悩ましい。

 

正直どんな言葉で感想を書いたらいいのか分からない。500ページくらいのそれなりに長い小説なのだが、文章の一つ一つが身体に刻み込まれていくようで、読んでも読んでも飽きることなく終わりのページを迎えた。

 

『みんな違ってみんな良い』

『多様性は素晴らしい』

などという言葉は、

使い勝手の良い言葉として、あたかも自分は理解力のある人間ですよと示すために使いがちだ。

 

しかしその『多様性による違い』はどこまでの違いなら許されるのか?

犯罪と勘違いされるような指向の違いを『良いこと』として本当に認めてくれるのか?

多様性といいながら、許容される多様性は多数派が寛容できる範囲に限る多様性ではないだろうか?

 

近年、ポリティカルコレクトネスという言葉をよく聞く。しかし、この本を読むとコレクトネス(正しさ)は誰にとっての誰のための正しさなのだろうかと思わされる。

 

この本を読んで色々か考えが浮かんできたものの、具体的にどう多様性に向き合えば良いかという答えは出ない。

 

ただ『3分の2を2回続けて引く確率が6分の4となるように、多数派であり続けることは少数派である』ことは忘れないように生きていこうと思えた。

 

 

人の間

ふと携帯を手に取る。

 

暇があれば携帯を手に取ってしまう現代病に侵されている自分に少しの罪悪感を感じる。

 

携帯を手に取ったものの特にやることはない。

Twitter(Xが正式名称だが慣れない)やインスタも特に更新がないため、見ることがない。

 

このような時は決まって写真フォルダを見る。

特に1年前の写真を見返すようにしている。

 

『この出来事から1年かぁ〜』という感慨に耽ることで、「1年は意外と長いから焦らなくてもいいよ」という言葉と、「すぐに1年経っちゃうから努力しなよ」という言葉を交互に自分に投げかける。

 

子供の頃は自分が年老いて死ぬことは遠い先のことに思えていた。そんなこと起きないのではないかというレベルの遠いことに思えていた。

しかし最近は、1年がこんなに早いのなら80歳になるのもあっという間だと思うようになった。

 

かといって、80歳までに何を成し遂げたいかは分からない。何を成し遂げなくても別に幸せである気もしている。時折、人生とは何なのだろうと思う。別に病んではいない。むしろフラットな気持ちとして、人生とは何でどうやって生きるのが正解なのかと思う。

 

以前、夢の中で知らない人が、「人間という文字は人の間と書きます。つまり我々は普段は人ではない存在で、現世は人であるつかの間という時間です。だから大切に生きなさい(大意)」と言っていた気がする。

 

時々、この夢を思い出しては、なるほどな、と思う。

人生に目的は中々見つからない。でも、人である時間は少ないということは確かにそうであると思うし、貴重だ。

私という存在がどんなものであるかは分からないが、人である時間は確かに希少である気はする。

 

とりあえず、何か無駄にしないようには生きようと思う。(まぁ無駄で何に役に立つのか分からないことが大好きなのではあるが)

 

そんなことを考えていると、写真フォルダの写真を一通り見終える時間となる。

 

そんな私の日常であるが、

とりあえず人である間は、

人として色々なことに挑戦したいと思う。

 

 

柚子風呂と重層的思考

職場で柚子をもらった。

『ありがとうございます!湯船に入れて柚子風呂にします』とお礼を言うと、

『お風呂入れるなんて偉いね』と言われた。

 

自分にとって湯船に浸かることは日常のルーティンなのだが、20代男性にしては珍しいということらしい。

確かに社員寮で毎月貼り出される光熱費の内訳表?を見てみると自分の部屋の水道代が1番高い(高いといっても寮なので一人暮らしに比べたら十分安いのだが)

 

大学に入り1人暮らしを始めた当初は、掃除をしてお湯を貯めるという行為のハードルが高すぎてシャワーで済ませていた。

 

しかしいつからかお風呂に入ることが好きになった。お風呂に入ると身体の表面に着いた1日の疲れのようなものが流れて、新品の自分になれる気がする。

またそもそも水というものに包まれるというのはとても安心をする。

『赤ちゃんの頃は羊水の中にいたから〜』というような科学的な理由?とは別の理由で気持ちが落ち着く。

 

というのも、自分が水になりたいと思う節があるからだ。

水はどんな形にも変形できる。且つ、水の滴は岩をも穿つし、水は人間にとって不可欠である。

 

自分もそんな存在になりたい、と、いつからか思っていた。そんな理由で水に対しては尊敬の念?があるため、そのような存在に包まれるお風呂は大好きだ。

 

柚子風呂から出て布団に寝転がると、身体から柚子の爽やかだが温かい匂いが香ってきて気持ちが落ち着いた。幸せはこんな簡単に手に入るんだなと実感する。

 

時折こんなくだらない自己分析ばかりしていると、自分は何も進んでないような気がする。

 

しかし、進化はしなくても深化すれば良いのではないかと最近思う。

 

定量的な形で誰かに説明できないと自分が何も進んでいないように思えて気持ちが沈んでしまうこともある。また考え込んで自分の存在が宇宙に飛んでいってしまような気持ちになることもある。

 

しかしそれはそれでいいのではないだろうか。

世間一般では、横軸に思考が広がることばかりもてはやされてる気がする。しかし目に見えなくても、定量的に説明できなくても、縦の世界で思考が深めることで見つかるものもあるのではないか。

 

どうしても横軸ばかりが評価されてしまうが、縦軸の思考を深めていきたいと思う冬至の日であった。

 

PS.柚子風呂にハマり自分で柚子を買ってしまった。

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吉本ばなな『キッチン』を読んで

読まず嫌いで、ずっと読んでいなかった(そもそも小説ではなくエッセイ集だと思っていた)が、YouTube本仮屋ユイカさんがオススメをしている動画を見て興味を持ち、読んだ。

 

正直言葉にできないが、読んでいて何度も泣きそうになった。強い衝動が襲ってきて涙が出るのではなく、じんわりと心の奥底で閉じていた心のドアを開かれて(読んでいると何かを許された気がして)勝手に涙が出てきてしまった。

読む前は何となくオレンジ色のほっこりするイメージの本だったが、読んでみるとめちゃくちゃ澄んだ青色の本だった。

 

今まで読んでこなかったことを後悔する気持ちよりも、今このタイミング(社会に出て数年が経った現在)に出会えて良かったと思えた。

 

自分にとって本当に大切な感情や大切なことを思い出させてくれる小説だった。

お金や宝石や功績などを得ることは凄いことだし、大事なことだと思う。

でもそれに勝るような一夜限りの出来事や、一晩の夕食が存在すると思えた。(ずっと心の中で自分を支えてくれるような思い出)

 

毎日が良いことばかりではないし、壊れてしまいそうな夜をこれから何回も経験すると思う。

でも同じくらいに良いことも沢山あるし、素敵な瞬間を何度も経験するだろうし、経験するために全力で生きようと思えた。

 

難しい言葉遣いはしていないがそれでいて心に響いてブルーハーツの曲 と同じような本だなと直感的に思った。

 

あまりまとまりのない文章になってしまったが、今はそれはそれでいいと思う。

 

この本を読んだことで自分自身のdoが変わるかは分からない。しかし、beの部分が微かだが絶対的に変化、柔らかく変わった気がする。

 

オズの魔法使い星の王子さま、僕らの七日間戦争、都会のソムソーヤなど、自分にとって宝物の本はいくつかあるが、この本も宝物の一冊になるだろう。

(自分の肌にあった本を読むと本が自分の身体の一部になった気がして、強く優しくなれる気がする)

 

これからもこんな体験のできるような本に出会いたいし、そんな本に出会えるような生き方をしていきたい。

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